11月も今日で終わりである。
私にとっては、月末恒例のアルコール解禁日ということになる。
今年の2月にピロリ菌の駆除をしてからというもの、胃の上の当たりの調子がすこぶる良い。
正確に言えば、逆流性食道炎の症状が改善した、ということだと思う。
以前のように、胸が焼けたり、酸っぱいものが胃の奥から上がってくるような不快感は、ものの見事に消えてしまった。
せっかく気持ちの良い状態になったのだから、できるだけ長くキープしていきたい。
だから、治療後は暴飲暴食は厳に慎んでおり、とりわけアルコールの量も極端に少なくした。
この3月からはウイスキーをシングル1杯で抑えている。
さらに、今日はストレート飲みはやめて、水割りでウイスキーを味わうことにした。
少しでも体への負担を少なくしたいと考えてのことである。
自宅で水割りを飲むなんて、おそらくこの10年間はなかったと思う。
だから、マドラーも見当たらなくて、割りばしでかき回さざるを得なかった(汗)。
出来上がった水割りを口に含んでみたところ、思っていたほどの水臭さはなかった。
これならウイスキーの風味を損なうことはない、と胸をなでおろした。
考えてみれば、ストレートで飲むときも、6,7年前からはチェイサーで水を飲んでいるので、成分だけをとらえれば同じである。
ただ、少しばかりの誤算は、水割りにすると氷を入れるので、この季節には冷たい飲みものになってしまうことだ。
これには参った。
とはいえ、総合的に言えば、水割りで飲むことに何の問題もないとわかった。
今後は、このパターンで家飲みをするつもりである。
なお、年末年始は特別な季節なので、月1回の原則にかかわらずウイスキーを飲ませてもらう。
八百万の神々もお許し下さるに違いない(笑)。
酔うことはできなくても極楽気分は楽しめた
太宰治の『斜陽』を読んだ。
名作と言われている文学作品には、読めば何らか得られるものがあるはず、との漠然とした動機からである。
この作品は高校生のときに読んだことがあり、あれから50年経った今、私がどう感じるか比べてみるのも一興かと思ったのも事実だ。
さらに言えば、こういった古典的な作品であれば、図書館での予約の順番待ちがほとんどない、といった現実的な理由もある(汗)。
ところで、図書館で借り出したとき、この本のサイズが大きいことに驚いた。
『斜陽』なら本当は文庫本だと思っていたのだが、手にしたのはA5サイズなのである。
中をめくってみてワケがわかった。
文字が大きいのである。
「デカ文字文庫」と銘打たれたシリーズものらしい。
まるで私のために用意されたかのような体裁である。
近視に乱視、老眼、白内障、さらには飛蚊症と、日を追うごとに文字が読みにくくなってきている私には、大きく印字された文字には快適そのものだ。
もちろん、意図して予約を入れたわけではないが、私にとってはうれしい意外さであった。
読み終わって感じたのだが、まずは内容を全く覚えていなかった事実に、自分自身で驚いている。
ストーリー展開や場面ごとでの描写など、いくら50年前とはいえ、どこかは断片的にでも記憶の片隅に残っていてもおかしくないのに、ほぼ完全に消え去っていた。
だから、初めて読むのと同じことになった。
思うに、高校時代の私の感性では同書にはついていけず、したがって私の記憶にも全く残らなかったのかもしれない。
実は、やはり太宰治の『人間失格』を先週に読んだときも、二十歳前後で一度は接していた本なのに、ほとんど中味を覚えていないことに気づいて愕然としたのである。
厭世的な色合いが濃い作品を読み終えたときは、沈痛な思いに包まれ、気持ちが沈んでしまう。
あまり近づかないほうがいいような気がしてきた。
外の天気は良かったのに私の心は暗くなった(涙)
今日は、小型複雑ごみの収集日であった。
私は、割れたタンブラーを出した。
今まで、乾電池、こわれた血圧計などをこの日に処分したことがある。
今日出したタンブラーというのは、昨年に妻がアメリカの息子夫婦のところに様子見に行ったとき、妻からのお土産でもらった記念すべきものである。
内部にガラスが使われている部分があって、そこが割れてしまったのである。
2週間ほど前のことであった。
直接のきっかけは不明だが、いずれにしても使えないのだから捨ててしまうしかない。
ただ、妻には内緒にしておくつもりだ。
このことによって、夫婦関係の破綻という悲劇に結び付けられても困るからである。
妻はそういった現象を気にして、良くないことの前兆ではないかと心配する向きがある。
だから、わずかばかりのアクシデントであれば、妻には言わないほうがいい。
もう20年以上も前のことだが、腎臓の手術を受けるために入院していたことがあって、その手術の前の晩、歯を磨いていて歯ブラシが折れてしまったことがあった。
緊張のあまり力を過剰に入れてブラッシングしていたのだと思う。
そのことも、妻にも誰にも言わないでおいた。
私自身、歯ブラシのことが少しは気になっていたものの、手術は問題なく終わり、その後も腎臓はちゃんと働いてくれている。
気にしていたら、エネルギーを使うだけ損だと思う。
しかし、妻は、好ましくない現象に接すると、自分や家族の身に不運が襲いかかってくるのではないか、必要以上に恐れるのである。
いつぞや、お通夜か告別式かに参列したとき、たまたま隣にいた人の数珠の紐が切れて、玉がバラバラになって床に落ちてしまった、というのがあったらしい。
で、その数珠を持っていた人が、その後、何か月かして突然のご病気でお亡くなりになったというので、しばらくは妻の怯え方も尋常ではなかった。
実際には単なる偶然だろう。
タンブラーのガラスが割れたというのも、そもそも材質がもろかったのかもしれないし、あるいは私の扱い方が乱暴であったのかもしれない。
いずれにしても、夫婦関係の今後を暗示しているわけではないことは、科学的には確かだ。
元国会議員同士の夫婦で、夫が再度の女性問題を引き起こしたことが芸能ニュースのページを飾っている。
今回も、妻は鷹揚な態度で接しているようだが、おそらく夫側はこれで懲りたとはならないだろう。
二度あることは三度ある、というではないか。
必ずしでかすことと思う。
しかし「仏の顔も三度」だから、次は奥様がどんな態度に出るかわからないが。
サボテンのイラストは気に入っていたのだが
来年の皇居での一般参賀は中止になることが決まった。
昭和天皇のご崩御の翌年以来のことだそうで、感染症ゆえやむを得ない処置とは承知していても、無念の思いは禁じ得ない。
偶然だが、昨晩に、私の所属している団体からのメールで、例年であれば1月下旬に行っている新年会は中止になる、との連絡を受けたばかりである。
ふた月ほど先の話だから結論を出すのが早過ぎるのではないかとも思ったが、昨今は陽性反応を示す人の数が増えつつあるので、団体の事務局としては、慎重にも慎重を期したのだろう。
多くの企業も会社防衛のために、飲食の場を設けることを避けている。
東京商工リサーチの調査によると、大企業も中小企業も合わせ、約9割の会社が忘年会や新年会を開催しないという。 ( →
https://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/20201119_02.html)
企業単位の宴会となると人数がまとまるだけに、飲食店にとっては年末年始は、取りも直さず書き入れどきそのもののはずであった。
それが9割がたも水の泡と消えてしまうのだから、経済損失は、日本全体で合計してみたらとてつもない膨大な金額になるだろう。
野球の日本シリーズでソフトバンクが全勝してしまい、試合数が少なくなったものだから、期待されていた経済効果のうち約20億円が減ってしまったらしい。
忘年会や新年会の中止による損失は、それどころではなかろう。
この場合、消費者の行動として、野球以外の何らかの楽しみのためにおカネを使うことになるのであれば、日本経済全体としては影響はないと考えられる。
しかし、野球観戦に行けなかったから、それを消費しないで貯め込んでしまっていたのでは、景気循環につながらない。
ちなみに、今年は、高額のおせちに予約が殺到して10月半ばで売り切れたものもあるという。
しかも、25万円とか30万円とか、私の感覚で言えば天文学的金額である(汗)。
どうやら外出規制のために帰省や旅行をあきらめて、その分、おせちを豪華にしたいとの発想からだそうである。
交通関連の会社やホテルなどは打撃だが、料亭や百貨店などには慈雨となるのは確かだ。
来年の東京オリンピックでも経済効果4兆円との予測を聞いたことがある。
もし中止になれば4兆円を丸ごと損することになるのか、あるいは、ほかの何かに消費が回ることになるのか、そのへんはどうなのだろうか。
シールドをはさんでおしゃべりする宴会は経験したことがない
かかりつけクリニックで、毎月一回の診察を受けてきた。
血圧の測定結果は118-72と、私の年齢にすれば理想的な数値を示していた。
医師もにっこりとご機嫌が良さそうである。
私も他人を喜ばせることができ、いかにも自分が善人になったかのような気分を味わえるので、本当にハッピーだ(笑)。
気分を良くして、私が3年前まで住んでいた家に立ち寄った。
目的は、あらためて黒豆煮を作ったので、お福分けをしたいと思ってのことである。
うまい具合に、今日は幼稚園が午前で終わるということで、下の孫娘が帰宅してきた。
期せずして、一家あげての黒豆煮の試食会が始まった。
自分で言うのも気恥ずかしいが、思いのほか好評であったのがうれしい。
妻や娘からは、「やわらかい」「皺がない」との賞賛の言葉が飛び出し、こういったシチュエーションには不慣れなことも手伝って、いささか身の縮む思いをした。
とりわけ、孫娘が、黒豆を繰り返し口の中に放り込んでいる光景ほど、黒豆が美味さを雄弁に物語るものはない。
もとより豆類は大好きな孫なので、別の視点から見れば、よほど出来の悪い黒豆でない限りは喜んで食べるのは当たり前かもしれないが(汗)。
さすがに妻は何か秘密があることを見抜いていて、「普通の鍋で作ったの?」と私に私尋ねてきた。
ウソはつけないので、圧力鍋で煮たことを言うと、納得してくれた。
どうやら、普通の鍋だと、どうしても皺ができてしまうらしい。
ましてや、料理の「り」の字も知らない私に、皺のない黒豆煮ができるわけがない、と不審に思ったのだろう。
プロセスがどうであれ、完成したものが一応は合格点のようなので、私は単純に喜んでいる。
さて、わが家の元旦を飾るおせちの一品として、私の黒豆が採用されるかどうか、少なからぬ関心を持ってきた。
いきなり、今日の段階でその話を切り出すのは性急すぎる。
12月にもう一度、黒豆煮を作って持っていき、妻の口から「おせちで使いたい」の言葉を引き出す作戦を練った。
さて、どうなることやら。
カレーライスと一緒に黒豆を食べていた
あれはちょうど50年前の今日に起こった事件であった。
作家の故三島由紀夫が憲法改正を叫び、自衛隊の決起を呼びかけ割腹自殺をしたという三島事件である。
当時の私は高校3年生で、受験勉強の真っ最中であった。
英語の先生からすすめられて、NHKラジオの英語ニュースを聴くのがそのころの日課の一つであった。
といっても、”Prime Minister Sato”と”Vietnam War”以外は、ほとんど何を言っているのかわからなかった。
50年前のその日も、半ば惰性でもって聴いていた英語ニュースだが、
”・・・・・・・Yukio Mishima committed suicide by harakiri.”
の一節に、体の全神経が緊張を帯びたのを思い出す。
ちなみに、”commit suicide”が「自殺する」の英語表現だと知っていれば、中学生でも理解できるフレーズであって、だから私にも聴きとれたのだが(汗)。
当時はネットなんてない時代だから、あわててテレビのスイッチを入れ、何が起こったのかを知った次第である。
この事件は海外にも報道され、しばらくは熱い話題にもなったのだが、いつの間にか忘れ去られたかのごとく、誰も口にしなくなった。
学校でも、文学や小説の話などしたこともない同級生が、三島の文庫本を両手にいっぱい買い込んでいたものだ。
また、集会やデモに積極的に参加していた反戦系のクラスメートにも、この事件には並々ならぬ関心を寄せている者がいたのも覚えている。
思想は対極のものであっても、「武装蜂起によってこそ革命政権は成立する」との彼らの理論に相通じる行動であったからかもしれない。
とはいえ、2週間もすればいっときの熱気はウソのように冷めてしまった。
みな、受験勉強のほうに関心が移ってしまったからである。
11月といえば、すでに日米安保条約も自動延長されており、彼らの闘争目標がなくなったこともあって、そもそも革命運動に投入するエネルギーがなくなってきていたのだろう。
また、社会全体を見渡しても、あの事件によって結局は何ら変わりはしなかった。
憲法は安部前総理のあれだけの思い入れも実らず、現在も手が加えられていない。
三島由紀夫が文字どおり命を賭して立ち上がったのであるが、今となっては過去の一つの出来事にすぎなくなった。
精神医学では、彼は自己愛性人格障害であったというのが定説となっている。
「人格障害」といえば、元娘婿のことをイヤでも思い出してしまう。
三島も元娘婿も、ジャンルが違うとはいえ、万人が認める抜きん出た能力を持ちながら、社会に適応できずに苦しんでいた、あるいは苦しんでいるのは、見るに忍びないものがある。
三島由紀夫は大正14年(1925年)生まれというから、生きていたとすれば現在95歳である。
誇り高い彼にとっては、みずからの老醜をさらすのは死ぬより辛かったのかもしれない。
しかし、私は、彼に生き続けて運動を続けてほしかったと、いまだに思っている。
読んだのは2回目だが彼の感性は私のレベルでは理解できない
小さい頃からそうだが、卵を食材に使った料理が好きである。
おまけに物価の優等生という異名をとるほど値段は安い。
自炊をするようになってからというもの、何らかの形で毎日卵を食べている。
50代後半のある時期、血液検査でコレステロール値が基準値を超えて高くなったことがあった。
検査結果を見ながら医師が禁止した幾つかの食べものの中に「卵」も並んでいたのだから、そのときは狼狽した。
もっとも、当時は会社勤めであったので、お昼の弁当や各種会合の会席で卵料理が出ることもあり、それは知らん顔をしながら食べたが。
もちろん処方された薬をきちんと飲んでいたのもあって、わりと早くにコレステロール値は正常に戻った。
そして医師から告げられたのは、
「今後は一日1個の卵を食べてください」
とのことであった。
「過剰摂取はいけないが一日1個であれば、鶏卵には理想的な栄養素が詰まっていますから」
と補足説明を聞いて、
「つまり一日2個までであればOKだ」
と自分の中で勝手に解釈したことを覚えている。
しばらくは一日1個を守っていたものの、いつの間にか一日2個が常態化し、いまやすっかり定着している。
ところで、この卵はスーパーでの特売のときに買うようにしているが、世の多くのスーパー同様、10個入りパックが98円で出されている。
つまり、卵1個の本体価格は10円もしないのだ。
いまどき信じがたいほどの「物価の超優等生」である。
それは喜ぶべきことだが、一日2個を食べるのだから、1週間に1パックだけでは足りなくなる計算になる。
そこで、月に一度ぐらいは、買い足しをしなければならない。
一般的なスーパーでは、一度の買い物では1回しか98円の卵パックは買えないし、しかも、卵以外に一定額以上の商品を買っていないと正規の卵パックの価格になってしまうシステムである。
私の生活圏では、毎週火曜日に卵特売をやっているスーパーが2軒ある。
その2軒はライバル意識が強く、各方面で熾烈な戦いを繰り広げているのが客の側にもよくわかる。
卵パックにしても、火曜日開催や朝は9時から午後は4時からとぴったりと合わせており、お互いに、客をとられてたまるもんかと鼻息の荒さがひしひしと伝わってくるのだ。
違っているのは、「一定額の他の商品購入額」の基準だけであり、大手のほうは1,000円、小規模店のほうは500円と決まっている。
お店の力の差というのは、こんなところにもあらわれるものか。
煎り酒を少しだけ入れてスクランブルエッグで食べることが多い
去年の4月に圧力鍋を買ったが、そのときから黒豆煮を作りたいというのが頭の片隅にあった。
実家住まいの頃のこと、大晦日ともなると、決まって今は亡き母が黒豆を煮ていた。
なぜかその光景があまりに印象的であったので、私も黒豆煮に関心を持ったのである。
圧力鍋のメーカーの説明書には黒豆煮のレシピはなかったが、ネットを探せば山ほど出てきた。
逆に、多過ぎるのでどのサイトのレシピがいいのか、あれこれと迷ってしまい、決めかねていた。
また、レシピによって使用材料や水分量、加熱時間などがバラバラであり、この点も私の迷いをより深刻にしてしまった。
単に私が優柔不断なだけかもしれないが(汗)。
違った角度から考えれば、それだけストライクゾーンが広いということにもなる。
百点満点の正解を求めること自体が無体な話かもしれない。
ともあれ、あとは野となれ山となれの気持ちでやってみようと、重い腰が上がったのはようやく先週のこと。
材料を買い込んで、昨日から一晩かけて豆を戻しておいた。
実際に出来上がった黒豆を口に含んでみると、とろけるような甘さがたちまち広がり、それはそれで満足感を覚えたが、少し甘すぎるのではないかという気がしてきた。
150ℊの黒豆に90ℊもの三温糖を投入したのだから、当たり前といえば当たり前だ。
糖分が過剰なような気がするが、それでもこのレシピは甘さ控えめとなっている。
いつもなら三温糖でコーヒーに甘さを持たせるときは、ティースプーン1杯を恐る恐る入れているが、その慎重さがむなしく思えてきた。
また、これは私の失敗なのだが、醤油のかわりに煎り酒を使ったところ、肝心の黒豆の色がやや茶色がかって仕上がっていたのである。
黒豆を黒豆たらしめるには、やはり真っ黒でないとまずい。
次回は、濃口醤油を使うこととする。
そして、妻や娘や孫たちにも試食をしてもらって、可能ならば元旦の食卓の一品に提供したい、と大胆不敵なことを考えている。
断わられたら一切の抵抗なくあきらめるが(汗)。
黒豆の蒸気の匂いがするといまだに大晦日を連想する
ハガキを印刷するソフトとして、私は『筆まめ』を使っている。
ほとんどが年賀状を作るときにお世話になっているのだが、たとえば昨年の同窓会の準備でも大活躍してくれた。
実は、先日、大阪の大都会で人に会ったという用件は、ハガキ印刷もからんでのものであった。 (→
https://koenakikoe.blog.fc2.com/blog-entry-4200.html)
そのかたは某団体の会長をされており、私が事務局長という名の雑用係なのだが、2月に役員会、4月に総会を行うのが例年の慣行であり、その打ち合わせのために協議したのである。
ただ、感染症の関係があって、実際に開催できるかどうかが不明である。
もちろん、今の段階では、予定どおり開かれるとの前提で心積もりをしておかなければならない。
開催となれば、その案内をひと月前には会員の元に着くように送るのだが、その総数が約900枚になるという。
従来から、ソフトは『筆まめ』で作成し、家庭のプリンタでせっせと印刷していた。
私も、その方法を引き継ぐようにと、あの打ち合わせのときに指示があった。
もちろん、自分が使っているソフトだから何の問題もない。
なお、印刷の枚数が極端に多いだけに、プリンタを派手に使うことになるからというので、インク代に関しては遠慮せずにその団体に請求するように、とのことである。
それはそれで歓迎すべき話ではあるが、私用でもプリンタを使う機会があるのが気になった。
年賀状など、確実にプリンタを使うのだから。
その点は、「それぐらいは無視して結構です」とのお返事。
言うならば、900枚が公用で、別途100枚が私用と考えれば、知らん顔のできる範囲かもしれない。
で、昨日、その会長からメールが来て、
「『筆まめ』は最新バージョンをインストールしてください。
費用は会のほうで負担しますから。」
とあった。
心の中で小躍りしながら、今朝、新しいバージョンにアップグレードしたのである。
ただ、インストール作業をしている間、突如、私に「これでいいのか?」と問いかける天からの声が聞こえた。
自分がプライベートでやりたいと思っていることを、所属している会の経費でまかなうなんて、私物化そのものにほかならない。
いまや死語になった感のある「社用族」なる言葉が脳裏をかすめた。
ソフトの費用については、会には請求しないことにした。
3,000円足らずのことであるし、上質なお寿司もご馳走になった(汗)。
何より、今後も何の気兼ねもなく『筆まめ』を使い続けることができる。
おかげで気が楽になった。
手にペンを持ってハガキを書くことがめっきり減った
妻が息子と話をして、年末年始の息子一家の予定の詰めをしたらしい。
結論は、わが家には来ないということである。
このように終着点だけを書いてしまうと、円満かつ和気あいあいのうちに話し合いが進んだかのように見えるかもしれない。
しかし、山あり谷ありの紆余曲折を経て、血みどろになりながら、ようやく一致点を見出したというのが真相である。
ときには電話で声を荒げながら、あるいは、メールで甘言を弄しながら、双方とも渾身の力を込めての対決であった。
問題がややこしくなったのは、妻と嫁とのラインかメールのやりとりの中で、言葉の行き違いから丁々発止の舌戦が繰り広げられた、という点である。
その経過の詳細は、とにかく私が妻から聞くだけでも相当に疲労感を禁じ得ないほどのボリュームがあった。
家の中の恥を知られたくないし、第一、かなりの分量となるので、具体的な話は割愛させていただく。
ただ、この葛藤は誤解によるものであったと、お互いに理解し合えた点には大きな救いを感じる。
なお、今朝、妻から対面でおよそ1時間ほど話を聞き、帰宅すると同時に、また妻から電話がかかってきたのである。
妻の胸中には息子との対話をしているプロセスで生じたフラストレーションが相当に溜まっていて、それを吐き出すために、私に憤懣をぶつけてきたようだ。
だから、その内容たるや、実際にはグチと変わらないものであった。
所用時間は1時間41分・・・。
さすがに気が済んだのか、電話を切るときは妻の声も軽やかであった。
しばらくして、また電話。
今度は50分。
今日は相当な時間を妻のために捧げたことになるが、今まで家庭内のことはすべて妻に任せて何もしなかった私だから、せめてもの贖罪の真似事だと思って甘受した。
今回も電話を終えたときは、妻は晴れ晴れとした口調であった。
私は妻の言葉に耳を傾けていただけに過ぎなかったが、妻は自分で今後の対処法を見つけだしていた。
「あまり私のほうからはしゃしゃり出ないようにする」と。
これで、あとは、時が解決してくれると思う。
まだ決めたわけではないが、Zoomでもって息子一家とは新年の挨拶をしようかなとも考えている。
一言だけでいいので、孫の顔を見ながら言葉を交わしたいからである。
最後には前向きになったので、長電話の値打ちがあった
大阪の北の玄関口と言われる梅田に出かけた。
人に会うためであるが、彼は阪神電鉄沿線に住んでおり、私が阪急電鉄沿いなので、二人が落ち合うのにちょうど都合のいいポイントが梅田なのである。
感染症が懸念されるこの時期に、あえて人口密集地を待ち合わせ場所としたのは、お互いに平等な地であるからにほかならない。
私が以前に梅田に出たのは昨年の同じぐらいの時期のことであったから、ほぼ1年ぶりとなる。
1年も経てば、都会の光景は見違えるように様変わりするものだ。
おのぼりさんよろしく、目に入るいろんなものが珍しさで輝いていた。
同じ大阪でありながら、私の居住エリアとは全く異質な世界がそこには展開していた。
こんなところにひとりで突然に放り出されたら、迷子になってしまうこと必至だ。
幸い、私の母国語は日本語なので、通りすがりの誰かに訊ねれば、どこに行けばいいかはわかるとは思うが(汗)。
相手のかたとは、約1時間、コーヒーを飲みながら必要な打ち合わせをした。
その喫茶店でのお支払いは、お願いして私のほうで持たせてもらうこととした。
たぶん、こういう一等地のことだから喫茶代も高いだろうと思ってのことである。
恐縮していた彼であるが、すぐさま、「お昼はぼくがご馳走するから」となったのである。
これは私の書いたシナリオにはなかった言葉だ。
昼食の時間帯にずれ込む可能性を、うっかり失念していたのだ。
心の中で「しまった」とは思ったものの、いまさら修正はできない。
最初のコーヒーは、何も言わなければ、年長者である彼が支払ってくれていただろう。
そうなれば、もしランチに誘われたとしても、冷静な面持ちで、
「今度が私が持ちます」
と言えたのである。
社交の場から離れて長くなると、こんな基本的な所作もできなくなってしまうものかと、われながら愕然とした。
そんなやりとりを経て、彼に連れていっていただいたのはお寿司屋さん。
看板は「回転寿司」となっていたが、店の内装は高級寿司店を思わせる作りそのものだ。
メニューを見ると、3貫850円とのプライスの皿が、これ見よがしにずらりと並んでいる。
注文はテーブルに置かれたタブレットから入れるシステムになっており、完全明朗会計ではあるものの、2貫100円の回転寿司とは世界が違っていた。
まさか注文の金額を確かめて計算するわけにもいかなかったが、私の普段の昼食代とはケタが違うことは確かだ。
今日の打ち合わせの内容は、彼から私に対してある事柄を依頼した形になっているので、彼の側にも気づかいがあったのかもしれない。
ともかくも、彼に借りを作ってしまったこと以上に、自分自身の機転が利かない対応に、冷や汗が流れ出るのを止めることができなかった。
「梅田」を無理に音読みすると”バイデン”になる
「プリンターのインクが切れそうです」とのメッセージが、何日か前からパソコンに出てきていた。
プリンターは2台あるが、その中のA4サイズ用のマシンからのもので、マゼンタ(赤紫色)のインクが残り少なくなってきたとの警告である。
Wi-Fiでつなげているので、プリンターでの情報がパソコンモニターに反映される流れになっていて、これは確かに便利だ。
ただ、プリンタの電源も常に入れておかなければならないから、わずかとはいえ電気代がかかる。
さらに、これも優れた機能なのであるが、ときどき自動的に紙を使わないでテスト印刷をする。
インクが固まってしまうのを防ぐためだ。
そのこと自体は有難いのだが、反面、インクを余分に使ってしまうマイナス面があるのも事実である。
そもそも、プリンタを使って印刷するなんて、年に指折り数えるぐらいしかない。
ちょっとだけの機会のために日常的にメンテナンスをするというのも、コスパ的にはどうかという疑問はある。
おまけに、使い切ったインクカートリッジは、不燃ごみとして捨てるのではなく、再利用しなければならないような世間の空気がある。
環境問題を切り札にされると、正面切って反論するのも気後れするものだ。
スーパーでのレジ袋が有料化が法律で義務づけされる世の中の風潮を考えると、文句を言わずに従っておくのが無難だろう。
家電量販店やスーパーの入り口に回収ボックスが置いてあって、そこに使用済みのカートリッジを持っていくのが一般の処理方法である。
私もその慣例にならい、今日、買い物のついでに近くの家電店まで持っていった。
ボックスには多くのカートリッジが入っていたが、これらはインクメーカーのほうで詰め替えをして、再利用することになるのだろう。
あるいは、プリンタ用インクカートリッジではなく、他のプラスチック製品へと転用されるものもあるかもしれない。
なんでも、一部には、使用済みのカートリッジをそのままで買い取ってくれるサービスもあると聞いた。
おそらく、ある程度は数量をまとめないといけないだろうし、それに、引き取ってくれる値段なんて、たかが知れているはず。
そもそも、そんなサービスをやっている業者は、少なくとも私の生活圏の中ではお目にかかったことがない。
総合して考えると、結局は所定の回収ボックスに持っていくのが、使っている側にとっては最も合理的な処分方法だという線に落ち着く。
なお、これは私の妄想であるが、グーテンベルクが発明した印刷技術は文明の発展に大きく貢献した事実は評価するものの、そろそろ「印刷」にかわるコミュニケーション方法が生まれてきてもよさそうな気がする。
長い間、お疲れさまでした。
日常生活の中で、自分の加齢を感じることがよくある。
今朝は、立ったままで靴下を履こうとしてタイミングをくずし、すんでのところで床の上にひっくり返りそうになった。
靴下を履いたり脱いだりするときは、運動を兼ねて、なるべく立ったままでやろうとしている。
要は、片足立ちである。
60代後半の人間には簡単ではない動作なので、ときおりテーブルの端に手をついての補助つきではあるが、一応は片足での着脱をやっている。
二十歳代の頃なんて、息を吸うのと同じように当たり前のようにできていたのだが、いつからか椅子に座ってやるようになっていた。
ずっと前に、血圧のかかりつけ医から、
「たとえ些細なことであっても、っできるだけ体を動かすようにしなさい」
と言われ、おそらくそれを機に、立ったままでの脱いだり履いたりを再開したのだと思う。
ときおりは何の補助もなく自力でできるときもあったのだが、60歳の声が聞こえてきたころからは、ふらつきかけたときには迷わずテーブルに手をつくことで、何とか凌いできたのである。
しかし、今朝ほどのあわや転倒には少々肝を冷やした。
早朝のことなので、階下の住人も目をさましてしまったかもしれない。
おのれの老化を恥じるものの、だがしかし、あきらめるつもりはない。
まさかと思いつつも「片足での靴下履き」をネットを検索してみると、思いのほかたくさんのサイトが出てくるではないか。
妙なところで、自分ひとりだけではないとの連帯意識を感じた。
靴下を脱いだり履いたりするだけでも、有効な筋トレになっているのは確かだと確信した。
あえて時間を設けてトレーニングをするわけではないので、負担はない。
少しでも健康寿命を伸ばすために役立つと考えて、立ったままでの履いたり脱いだりを心がけていく。
ロコモのチェック項目の一つになっているらしい
今朝は燃えるごみを出す日であった。
事情があって、いつもより少し早い時刻にごみを出そうと、部屋を出た。
すると、廊下をはさんで向かい側の部屋のMさんもごみ袋を片手に部屋から出てきたではないか。
ばったり顔を合わせる形になって、お互いに「おはようございます。」の挨拶を交わした。
実はこのMさんは、目下、私が警戒中の人物の一人なのである。
2週間ほど前のこと、ちょうど夕食を終えた頃に、私の部屋のインターフォンが鳴った。
誰かなと思いつつドアを開けてみると、そこにMさんがいたのである。
Mさんとはお目にかかったときに挨拶をするぐらいのもので、会話までしたことはない。
ただ、いろんな人と廊下や玄関で立ち話をしている彼女の姿はよく見ていたので、それで顔を覚えていたようなのものだ。
だから、Mさんは私のことは知らないであろうと思っていたのに、わざわざ私の部屋にまで訪ねてくるなんて、ワケがわからない。
彼女が私に問うたのは、「マンション管理会社への委託契約についての説明会」のことで、出席しないといけないのかどうか、ということ。
「私の管理組合の役員任期は終わっておりまして・・・」と事務的に突き放すのもあまりに冷たいし、「どういったことでしょうか?」とワンクッション置いてみた。
すると、Mさんからの返事は、要するに、仕事の予定があるのでその説明会には行けない、との内容であった。
もちろん、仕事が優先されてしかるべきなので、その旨を言うと、安心した表情を浮かべたのである。
しかし、これはあえて他人に相談するような次元のものではないのに、私にしてみれば事態が呑み込めないもどかしさを感じて落ち着かなかった。
彼女はそれを感じ取ったのかどうか、それから、自分の仕事の内容や実家の所在地、阪神大震災のときの被災体験、はては、こっそりと部屋で飼っているウサギの話まで語り続けた。
スマホを取り出してウサギの写真まで見せてくれたのには、心底、恐れ入ってしまった。
時間にすればおよそ15分ぐらいであったろうか、彼女がずっとしゃべりまくり、私はひたすら相槌を打つばかりであった。
彼女のほうから
「夕食の時間帯にごめんなさいね」
と締めくくって、この突然の訪問にピリオドが打たれたのである。
何の目的で私の部屋まできたのか、その趣旨はわからないままであったが、自己完結してくれたので、考えようによっては私は楽であった。
こういったいきさつがあるだけに、Mさんという人物像には不可解なイメージが付きまとっている。
おそらく何か狙いがあってのものではなく、単におしゃべりをしたかっただけなのだろうとは思うが、それにしても不思議な人ではないか。
阪神大震災のときに学生であったというから、今の年齢は45歳前後だろう。
職業も持っているし、年齢的には押しも押されもせぬ大人だ。
それなりの判断力や社会常識は持ち合わせているはず。
とにかく、今朝のごみ出しのときは、できるだけ顔を合わさないように細心の注意を払っていたものの、彼女のほうから何かと話しかけてくるから困った。
マンションに住んでいる人の中には、できるだけ他の住人とのコミュニケーションの輪を広げたいと考えている人もいるだろうが、私のように、自分のプライバシーを守っていきたいと思っている人もいる。
私はまぎれもなく後者のほうである。
学校の先生に家庭訪問されたような気がした
図書館に、借りていた本を返しに行った。
そのとき、窓口にいた職員のかたに、かねてよりの疑問を投げかけてみた。
「返却のときは、市内のどの図書館でお返ししてもよろしいのですか?」
と。
OKとのお返事であった。
考えてみれば当たり前の話であって、市立図書館の看板さえ上がっていれば、ネットワークでつながっているので、相互の情報伝達ができるのは当然である。
ネットで、読みたい本の予約をするときは受け取りを希望する図書館を指定し、自分の順番が回ってくればその図書館に受け取りに行く。
しかし、返却については、市内の図書館であればお互いに融通し合っているのだから、どこでも可ということになる。
デジタル化が進みつつある昨今、ゆくゆくは電子書籍が世の中の標準となるような気がする。
そうなると、図書館のありようも大きく変わらざるを得ない。
形を持った紙の本がなくなるのだから、図書館なる建物そのものが要らなくなる。
サーバーさえあれば用は足りる。
利用者も、予約の順番待ちをしなくていいのは大いに助かる。
もちろん、返却のために出向く必要もない。
昨今の感染症の蔓延を考えると、読んだ本を介しての接触感染リスクも避けることができる。
一応は、日本図書館協会が出しているガイドラインで、読み終わった人が返却しに来た本は、一定の期間は別の場所に隔離することになっているが、現場でちゃんと守られているかどうかは心もとない。
だから、人間が触れるのが避けられない紙の本をやめてしまって、デジタル化した電子書籍にすべきだというのは、説得力があると思う。
いいことばかりのようだが、考えなければならない問題もあるので手放しでは喜んではいられない。
デジタルデータだから、簡単にコピーできるとなると、著作権管理の問題が出てくる。
また、図書館職員が大胆に削減されることになり、その後の雇用をどうするかが悩ましい課題になる。
いずれは正面切っての議論が行われる時期が来るのではないか。
大阪市の住民投票ではないが、現状を変えるというのは想像を絶する困難がつきまとうものだ。
自分のことを知りたいと思って借りてきた
郵便受けに、マンション管理組合からの書類が入っていた。
予想どおり、臨時総会の案内であった。
議案は一つだけ、マンションのお世話をいただいている管理会社との契約更新のことである。
本来ならば8月の定時総会のときに議決されているはずであったが、「総会屋」によって議案審議そのものがボツになったという因縁がらみのものだ。 ( →
https://koenakikoe.blog.fc2.com/blog-entry-4117.html)
契約は11月末までなので、今月中には契約更新承認の議決をとっておかないといけない。
今まで何度か管理会社と住民とが意見交換をして、なんとか合意が得られるまでに達した。
私は出席しなかったのだが、「総会屋」は当然のように出席していて、ここぞとばかりに熱心に発言もしていたらしい。
なんでも、住民側は「総会屋」以外は誰も何も意見を言わなかったという。
だから、次に行う総会で承認されることは、ほぼ100%間違いない。
すでに、事実上、決議されることが決まっているのだから、本当はあえて総会を開くまでもなく、書類だけで住民の意思の確認はできるのである。
しかし、法律で決まっているので、住民全員に周知した上で総会を開催しなければならない。
そもそも、8月の総会のときの原案と次の臨時総会で出される案とでは、私が読んだ限りはたいして変わらないのである。
契約書の言葉の言い換えとか、火災保険の会社の社名変更が漏れていたのを修正したなどの些細なものばかりで、ムキになって議論するべき変更は全く無い。
乱暴な言い方をすれば、どちらになっても、快適なマンションライフを送る上では全く支障がないと思う。
単なる事務的な手続きだけのために貴重な時間は使いたくない、というのが私のホンネである。
総会に出るつもりはなく、「議決権行使書」でもって賛成の意思表示をしておいた。
おそらく、出席者は少ないのではなかろうか。
だから、予定されている会場も、マンション内の集会室となっている。
距離を保ちながら座ったとしたら、10人ぐらいが限度だと思う。
「総会屋」は自分ではいいことをしているつもりなのかもしれないが、一般住民にとっては迷惑でしかない。
人を困らせることに充実感を覚えるのだろうか
昨晩、所属団体の会合があった。
例年どおり、総会と懇親会のセットである。
懇親会は飲食を伴う集まりであり、この時期に一定規模の団体が行うというのは、実に異例としか言いようがない。
参加者は、口々に「久しぶり」の言葉を口にしていた。
そのとおりだと思う。
どの団体も、今は多くの人が集まる会合はしないようにしている。
世間一般の風潮に逆らっての開催は、この会の代表者の強い思い入れがあってのものらしい。
それだけに、主催者は非常に神経をとがらせているのが感じ取れる。
会場を決めるに際しても、幾つかのホテルの中から感染防止対策の最も厳格と思われるところを選んだという。
また、懇親会が始まる前に司会者から注意事項の説明があり、
「自分のテーブル以外での飲食は禁止」
「会話をするときはマスクをする」
「他のテーブルにお酒を注ぎに回ってはいけない」
など、箸の上げ下ろしにまで及んだのである。
テーブルは8人分の椅子がセットしてあったが、実際に座ったのは4人だけ。
動き回れないので、ビールを注ぐのも中腰にならないといけない。
ただ、実際に開宴となって酔いが回りだしてきたら、冒頭の注意事項もだんだんとゆるんできた。
最初はヒソヒソ話であったのも、いつの間にか普通の音量の会話になってしまっている。
他のテーブルにビールを次に遠征する人も出てきた。
人によっては、規則でがんじがらめにされてまでお酒を飲みたくない、というのもいいるかもしれない。
ただ、私など、通常の宴席と違って、食事に集中することができた点は大いに評価している。
しみじみと味わって出された料理を口にすると、その美味なることに胸を打つ。
どこかで読んだが、本当においしいものを食べたときというのは、感激のあまり涙が出てくるらしい。
その言葉にウソはないと感じた瞬間であった。
おいしい料理はひとりで静かに食べるべきではないか、そんな気がしてきた。
ダイコンを何枚かの鴨肉で包んであった
気の早い話であるが、お歳暮の手配をネットで済ませた。
関西では、お歳暮と言えば12月に入ってから、というのが旬となる。
本来は、12月中旬から20日ごろまで、とされていた。
しかし、関東のほうに引きずられたのか、今では12月1日からやりとりしても全く違和感がない。
関西人の私も、毎年、12月の第一週に到着するように、少し早い目に申し込みをしている。
今年は、昨年まで利用していたショップが、なぜか取扱品目を絞ってきて、私が贈ろうと思っていた品が商品リストに載っていない。
数の子である。
これもサンマ同様、今年は品薄なのだろうか。
しばらく考えたものの、新しいところで手配することにした。
3人のかたには、お歳暮には、毎年、数の子を贈らせてもらっている。
どなたも家庭をお持ちなので、お正月には必需のアイテムのはずだし、それより何より、数の子をアテにされているかもしれないからである(汗)。
ご期待に沿う品を贈らせていただくことこそ、真心にほかならない・・・などとひとりよがりの勝手な理屈であるが。
さて、注文のサイトから「数の子」を選択し、その中から、値段線や見栄えなどを比べながら、ちょうど適切なものが見つかったので、正式な申込手続きに入っていった。
しかし、「希望送付日」の欄を見るなり、たじろいてしまった。
なんと
「出荷日の希望には応じかねます。
手配ができ次第、順次、発送手続きを行います。」
と書かれているではないか。
私が贈る先はすべて地元の関西である。
もし11月の半ばにお歳暮として先方に届いてしまったら、顔色を失うばかりの間の抜けた話ではないか。
せっかく住所や氏名などの詳細を打ち込んだのだが、そこには見切りをつけた。
ほかで同じランクの商品を探し、出荷日の選択ができるのを確かめて、そこで申し込んだ。
なお、お中元やお歳暮は虚礼だと言われることがある。
しかし、相手先が受け取って喜んでいる姿を頭に思い浮かべながらお歳暮の手配をするのは、これは心と心の交流にほかならない。
仕事や損得関係が全くないかたばかりなので、私は純粋な感謝の念から贈らせてもらっていると心から思っている。
この思いはずっと大切にしていきたい。
本来は持参してお渡しするのが礼にかなっているらしいが
先日、歯のケアのために重曹を使った、との記事を書いた。 (→
https://koenakikoe.blog.fc2.com/blog-entry-4185.html)
そのとき頂戴したコメントで、「重曹にクエン酸を加えると泡が発生するので排水溝の清掃にも使える」と教えていただき、試してみたところ、確かに気持ちよく仕上がった。
狭い部分は使い古しの歯ブラシでゴシゴシと磨いて、外からは見えないものの、たぶんヌルヌルは取れたと思う。
こういったコラボのさせ方によって、強力な汚れ落としができるのだから、目からうろこの思いであった。
もっとも、一番最初に、水の中に重曹とクエン酸を混ぜたときに泡が出てきたのには、少々、驚いたが。
重曹の効果に目ざめてネットを調べてみたら、お風呂でも使えるらしい。
「重曹 入浴」で検索をかけると、次から次へと山のように出てくる。
体の汚れを洗い流す、入浴剤のかわりになる、美肌効果が期待できる、角質をとる、浴槽の掃除ができる等々、いいことづくめが書かれている。
このうち、「掃除」を試してみようと、昨晩、入浴のときに重曹をお湯の中に入れて、軽くかき回した。
いつもなら風呂上りにそのまま流すのだが、あえて栓を抜かずに貯まったまま、一晩置いておいた。
そして、今日の午後に栓を抜いて空っぽにすると、浴槽がちゃんと清掃されているではないか。
汚れの残っている箇所はスポンジで軽くこすれば、あとは水を流すだけで清掃が終わってしまう。
今までは、専用モップでもって浴槽内すべてをゴシゴシしていたのだが、その手間が省けた。
どれほど楽になることか、計り知れない。
ただ、注意すべき点も幾つかあるようだ。
重曹風呂をするのは、週に2回が限度だという。
毎日すると、肌がアルカリ性になってしまい、細菌が繁殖して体臭が強くなるリスクがあるらしい。
また、風呂の循環部分の装置をサビさせる恐れがあるので、追い焚きはしないことも大事なポイントとなる。
なお、当然のことだが、重曹の量を過剰にしないとか、あまりに長く浸かり過ぎないように注意しなければならない。
複数のサイトを読んで、これらの注意点は厳守するのが基本ではあるが、大切である。
なお、私は、秋から冬は必ずといっていいほど追い炊きをしている。
実は昨晩もうっかりと追い炊きをしてしまった(汗)。
今後は同じ轍を踏まないように細心の注意を払っていく。
風呂上りに重曹を入れるとか、自分なりに工夫をするつもりだ。
それにしても、ネットを検索するだけでいい情報を手に入れられたと思う。
童話の『青い鳥』ではないが、ちょっと手を伸ばせば、すぐ近くに宝ものが横たわっているものだ。
水面ぎわのラインが消えてくれたのがうれしい
スーパーで柿が一個90円で並んでいた。
値段につられたわけではないが、食べもので秋を味わいたいと思い、買って帰った。
産地が書かれていなかったので、ブランド柿ではないのだろう。
私にはその違いもわからないから、フツウの柿であれば何の不満もないが。
近年は「種なし」というのがフルーツのトレンドになっているかのようだ。
この柿も「種なし」を声高らかにアピールしていた。
食べるときには種がないほうが楽であることは言うまでもないが、安全性の点の懸念があるので、調べてみた。
農林水産省のサイトに答えがあって、
「・・・・柿の中でも受粉しなくても実が大きくなる品種があります。」
とのこと。
→ https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0411/01.html
つまりは、化学品や薬剤による加工はしていないとのことで、安心した。
私は、サツマイモやリンゴなどと同様、柿の皮も剥かないでそのまま食べるようにしている。
野菜や果物の皮の部分にこそ、栄養が凝縮されているからである。
もちろん、しっかりと洗って農薬の残りを洗い落としてから口にしている。
さすがに、バナナやキウイの皮は剥いて捨ててしまっているが。
食べてみると、甘さは期待していたほどではなかったものの、実の硬さは私の好みどおりのレベルであった。
噛んだときの歯ごたえが感じられたのがうれしい。
秋の涼やかさを満喫するいとまもなく、パクパクと完食してしまった。
余談ながら、「柿」にまつわるナンセンス話がある。
小学生が学校の宿題の作文で
「秋がふかまり、ぼくの家の姉も色づいてきました。」
と書いてあって、それを読んだ先生が面食らったという。
しかし、「柿」と「姉」の書き間違いであることに気づいて、冷静さを取り戻したとか。
50年前に聞いた他愛もない話なのだが、なぜかいまだに柿を見るたびに頭に浮かんでくるのである。
一個食べただけでも結構満腹感があった
今日、所属団体の会合に出たとき、雑談の中で「時間貧困」という言葉を教えてもらった。
「経済貧困」が”おカネがない”を意味するところから連想できるように、「時間貧困」は”時間がない”との意味だそうだ。
とりわけ、シングルマザーが仕事をしているケースなど、会社の仕事にプラスして、家事と子育てのすべてをするのだから、自分の時間がないのは言うに及ばず、子供にも十分な時間を割くことができない現実がある。
何年か前に、こういった実態をとらえて「時間貧困」なるフレーズを生み出した本が出版され、話題になったらしい。
会社の仕事で疲れた体に鞭打って保育所まで行き、預けている子供を引き取って家に連れて帰って、そこから夕飯を作り、洗濯や掃除をするのだから、とても親子団欒のひとときを設けることはできず、ましてや自分の趣味を楽しむ余裕なんて出てくるはずがない。
あまりに生活時間が足りなさ過ぎる現状をとらえて、そこから「時間貧困」なる言葉が誕生した、とのこと。
一連の話を、私は自分の娘のことと重ね合わせながら耳を傾けていた。
現在は、娘はまだ実家生活をしており、仕事にも就いていない。
だから、子供たちが学校や幼稚園に行っている間は、自分の時間を楽しむことができる。
実際には離婚に伴って生じた手続きを処理しているようだが。
しかし、来年には自分の家で親子三人で生活することになり、ある程度落ち着いてきたら、何らかの形で仕事をすることとなる。
そうなると、文字どおりワーキングシングルマザーになる。
もちろん、妻も私もいるのだから、娘から頼まれなくてもできる限りの手伝いはする覚悟だ。
とはいえ、最終的にはすべて娘が家庭のことについてはすべて、采配を振っていかなければならない。
そうなれば、「時間貧困」の現実に直面するのは必至だ。
ひるがえって、自分自身を見詰めれば、経済面はともかく時間の余裕は潤沢にあって、「時間リッチ」と皮肉られるかもしれない。
ただ、では時間の使い方が妥当かどうかとなると、いささか自分でも疑問が出てくる。
自分の人生を終えるときに、「人生を通じて、なにができたのだろうか?」と自問自答した場合、確信をもって回答ができるだろうか。
ホリエモンがどこかの本に書いていたが、
「僕のことを拝金主義者のごとく評する人が多いが、実際には、カネよりも時間のほうがはるかに大切だと思っている。
時間は命そのものだから。」
と。
私など、顔を赤らめるばかりである。
どんな人にも一日は24時間である
年に一度の健康診断を受けてきた。
私の住んでいる市では、市の協力医療機関に指定されているクリニックに直接申し込んで、受診することになっている。
今日は、今年の1月に胃の内視鏡検査をお願いしたクリニックに申し込んだ。
私がここで健康診断を受けるのは初めてである。
まだ開院して3年も経っていないし、医師もおそらくは40代前半と見られるお若いかたである。
新しいクリニックであるからか、来院している人の数は少ない。
朝早くだと、自分一人しかいないといときもある。
完全予約制であるので、待ち時間がほとんどない。
しかも、予約はほぼ希望どおりにとることができるのが有難い。
私の場合、病気での症状の治療のために医療機関を訪れることはあまりないものの、いざというときのために頼れる医師はキープしてある。
他方、検査のデータが欲しいとか、法令で受けなければならない健診とか、そんな義務的なものは、できる限り短時間で楽に処理したい。
だから、語弊のある言い方になるが、この場合は医師の技術や実績は二の次三の次の問題である。
それよりも、家に近くて、しかも待たずに受けられるクリニックのほうがうれしい。
こんないきさつもあって、このクリニックで診断を受けることにしたのである。
初めてだけに、戸惑うこともあった。
体重測定は上着以外の服は着たまま体重計に乗るように言われた。
今朝、家庭用の体重計で計ったときは42.5㎏であったが、クリニックでの数値は44.0㎏になっていて、ナースさんもそれをそのまま結果の欄に記入していた。
私にしてみれば、実際以上に大きな数字が出ているので異存はないが(汗)。
また、致命的に失敗したと思うのが、
「今日の結果は一か月に先生に聞きに来てください」
と言われたこと。
どうやら肺ガン検査は処理時間がかかるらしい。
すぐに結果を知っておく必要はないとはいえ、一か月も待たされるとは思ってもいなかった。
さらに言えば、これは私の落ち度なのだが、尿検査があるとわかっていたにもかかわらず、家を出るときに用を足してきたのである。
いきなり検査用の紙コップを手渡され、十分な量が出るかどうか心配であった。
案の定、紙コップに書かれていた「ここまで」ラインに達せずに終わってしまった。
絞りだすわけにもいかず、そのままコップを所定の場所に置いてきたが、特に何も言われなかったので問題はなかったのだろう。
来年もこのクリニックで受けるかどうかは、そのときまでに考える。
検査専門の機関だと必ず検査着で受ける
大相撲の11月場所の初日であった。
毎年、11月場所が始まると、いよいよ年末がやってきたなと感じ始める。
本当なら福岡での場所となるのだが、長距離移動が感染症の引き金になってはいけないとのことで、東京開催となった。
要らぬお節介ではあるが、Wikipediaでは「福岡国際センター」のままである(汗)。
今場所も、引き続き観客の入場制限が行われたものの、それでも5,000人までワクが広がった。
野球やサッカーと同じである。
ただ、相変わらず「大きな声を出しての声援は禁止」とか「トイレやエスカレータを使った後は消毒をお願いします」などの場内アナウンスを聞いていると、まだ楽観できるレベルではないようだ。
相撲の世界でコロナに話が及ぶと、故勝武士氏の悲劇を抜きにして語ることができない。
30歳に至らない若さであったが、糖尿病を患っていたとはいえ、コロナ感染がもとで死に至ったのだから、相撲協会としても傍観者然としているわけには行かないのだろう。
日本の20歳代で、新型コロナで亡くなった最初の事例でもあった。
いまだに角界はその事実に呪縛されているのかもしれない。
ただ、私は今場所も東西の両横綱が欠場しているという事態も、軽視はできないと思う。
とりたててどちらかの力士をひいきにしているわけでも何でもないが、横綱といえば大相撲の花である。
なのに東西とも不在というのでは、あまりに精彩を欠いているのではないか。
後光がさすほどの存在感を持ったトップ2の姿が見えないと、大相撲の重みそのものが無くなってしまうような気がする。
ともあれ、今日は幕内の対戦はすべて見たが、せめて3人の大関は全員が白星をあげて、相撲界の意地を示してほしかったのだが・・・。
お酒を飲みながらの観戦は禁止だという
妻から「相談がある」と言われていたので話を聞いてみた。
何ごとかなと思っていたが、聞いてみると、妻の中に溜まっていた嫁への不満を聞いてもらいたい、というのがホンネであったと思う。
昨年の暮れ、息子一家が帰国したとき、妻が東京まで迎えに行ったことをきっかけに、嫁との間で不協和音が生じていた。
もう1年も前のことだから、忘却のかなたに行ってしまったと私は思っていた。
それが、最近、ラインのやり取りの中で、またもやミスマッチがあって、再燃したようだ。
妻は相当なオカンムリである。
第三者的にひとごととして見た場合、昨年暮れの確執は嫁がインフルで苦しんでいたこともあってか、義母に対しては言うべきでないことをラインに書いていたように、私は受け止めている。
これは妻が怒り心頭に発するのはやむを得ないと思ったほどだ。
しかし、最近の事件については、一連のラインのやりとりを見せてもらったが、さほど目クジラを立てるようなレベルのものとはどうしても思えなかった。
とはいえ、私の印象をそのまま口にしてしまうと、妻の燃え上がった怒りに油をそそぐ結果になる。
何も言わないで、ひたすら耳を傾けていた。
30分間にわたって話し続け、カタルシス効果があったからか、終わった頃には晴れやかな表情になったと見受ける。
で、どう対応するかであるが、息子一人で家まで来てもらって、妻から率直に思いを語る、というところに落ち着いたのである。
妻は、私と違って物事をいい加減にできない性分だけに、自分の中に不平や不満を閉じ込めておくことができない。
ただ、その結果、息子との間にも距離ができてしまうリスクもある。
妻はそれも覚悟の上だという。
事と次第によっては、このお正月に一緒に新年を祝う予定もお流れになるかもしれない。
もしそのような事態になっても、妻としては今のままの状態で悶々とすることには耐えられないらしい。
そこまで言われれば、私が妻の行く道をさえぎるなんて無理である。
できるだけ早い時期に息子に声をかけることになる。
それにしても、娘の側の問題が一段落ついたと思ったら、今度は息子のほうに暗雲が立ち込めた。
家庭内トラブルはこれぐらいにしておいてほしい(汗)。
11月7日は立冬、妻は立腹。
内館牧子さんのエッセー『女盛りは心配盛り』を読んでいて、虚をつかれた部分があった。
彼女が大学教員であったとき、若い学生たちと会話をしていたら、都はるみさんの『北の宿から』を誰も知らなかった、という。
平成23年の出来事だから、今から9年前の話である。
私の年代の人間であれば、好き嫌いはともかくとしてもほぼ全員が知っている楽曲だと思う。
昭和50年に世に出たのだが、ミリオンセラーになったのはもちろん、あらゆる賞を総なめにしていった。
当時、この曲の紹介の折りには「いつまでも歌い継がれる昭和の名曲」とのフレーズがつきものであったが、私も歴史に残る楽曲の称号にふさわしいと信じて疑わなかった。
音楽のことは全くわからず、とりわけ演歌のジャンルは苦手な私でさえ、『北の宿から』に関してはメロディーも歌詞も秀逸で、こればかりは特別な存在だと、心の底から思っていた。
しかし、時代が変われば、今から9年前の時点で、若い人の間では歌の名前すら知られないようになったのである。
だから現在では、三十歳までの人間をつかまえて『北の宿から』とたずねても、みな怪訝な顔をするに違いない。
浮き沈みの激しい世界だとは聞いているが、新曲が発表されてから半世紀近くも経てば、忘れられてしまうものなのかもしれない。
「風化」は人知では避けることができないものだ。
だから、びっくりした私のほうこそ、感覚がズレている証かもしれない。
ところで、『北の宿から』の歌詞の中で、はやっていた当時と今とでは、私の受け止め方が大きく変わった箇所がある。
歌詞の3行目と4行目であるが、若かった私は、相手に去られてからも思いを寄せ続ける女性の一途な思いに共感をしていたものだ。(→歌詞)
しかし、それなりの年齢になるにつれ、執着を捨てきれない女性の優柔不断さに抵抗を覚えるようになったのである。
私も、50年前の自分とは完全に入れ替わってしまったのだろう。
私が学生生活最後の年に出た曲である
100均で重曹を買ってきた。
今までは、もっぱら清掃目的のために使っていたが、今回は料理と歯のケアにも使いたいと考え、あえて「食用」の重曹を選んだのである。
とりわけ、歯科の検診でいつも指摘される「歯の黄ばみ取り」に役立てようと考えてのことだ。
重曹を水で薄めて、それで口の中をゆすぐことで、各種の菌も取り除けるし、歯の黄ばみも薄らいでくることを期待している。
結果がどうなるか、私自身が人柱となっての人体実験である。
4か月後の定期検診で、成果があったかどうかが判明するはず。
ところで、100均のお店では、重曹は1種類しか置いていなかった。
”食品添加物”と品名の下に書かれ、さらに”料理から掃除までいろいろ使える”とのコピーがあった。
つまりは、口の中に入れてもいいし、掃除に使ってもいい、ということなのだろう。
今まで全く考えたこともなかったのだが、そもそも重曹は「食用」が前提であって、時には風呂やキッチンの掃除にも使える、との発想で商品になっていたのだろうか。
だとすれば、あえて「食用」を冠した重曹を探し求める必要もなかったことになる。
メーカーにしても小売店にしても、2種類の商品をそろえておかなくてもいいので、兼用のほうがメリットがあるのは言うまでもない。
ちなみに、賞味期限が”23.09.30”と指定されていたのを見たときは、自然と頬がゆるんだ。
料理にも使うので、本来の味わいや風味がキープできる期間を明示しておくことが義務づけられているからだろうが。
なお、消費税は軽減税率が適用されて8%であった。
さすがに2円の差額では、さほどのお得感はなかった(汗)。
清掃で使うときは、私はクエン酸のほうがメインである
アメリカ大統領選挙の投票が終わり、現今も開票作業が続いている。
現職優勢の様子だが、郵便投票が開票されると逆転の目もあるかもしれないので、予断は許せない状態だ。
どちらが大統領になるかは日本経済にも大きな影響をもたらすのは必至で、ネットニュースも朝の9時から開票速報を伝えていた。
ただ、こんな早い段階で情報を流す意味合いもないと思うが、これは一種のお祭りなのだろう。
かく申す私も、プロ野球のリーグ優勝がセパともに決まってしまったこともあり、次なる関心は米大統領選へとなだれ込んだ。
だから、頻繁にYahooニュースとAbemaTVを覗き込んでいた一日であった。
とりわけAbemaTVなど、時々刻々の選挙人獲得数の動向を熱っぽく伝えていて、いやが上にもハートをエキサイティングに駆り立ててくる。
もちろん私だけに限らず多くの人がそうであったろう。
テレビもネットも、熱い視線が注がれていたに違いない。
思えば4年前の選挙では、ほぼ100%に近い比率でクリントンさんが当選するとの見方がされていた。
しかし蓋を開けてみたら、トランプさんが勝利したのだから、「まさか」の言葉しかなかった。
クリントン候補の当選は間違いないと断言していた評論家もメディアも、顔色を失ったことは想像に難くない。
面白いと感じたのは、投票結果が出てから、
「私はトランプ大統領誕生の可能性を信じていた」
と主張する人が何人も出てきたこと。
結果が明らかになる前にそれを言っていたのであれば、先見の明があったと讃えることもできる。
しかし、終わってから言われても、どう相槌を打てばいいのか困ってしまう。
なお、今回の選挙で学んだ知識は、米国の一部の州では、期日前投票に入れた候補を変更することが認められている、ということ。
日本では考えられない。
何らかの事情があってそういった措置をとっているのだろうが、これもアメリカ流民主主義のあらわれなのかもしれない。
いずれにしても、一大イベントは熱狂のうちに幕を下ろした。
2020年もあと2か月足らずである。
平日でも多くの人が投票に出向いているのは大したものだ
朝のルーティンだが、目がさめるとまずはトイレに行く。
トイレに着くまでのわずかの時間に、まずは「今日は何曜日であったか?」を頭の中で確かめるようにしている。
曜日がわかれば、次は何をする予定になっているのかを頭に浮かべる。
まだ頭が十分に動いていないときには、これも活性化のためのトレーニングになる(と期待している)。
今日は火曜日でスーパーの特売があり、開店と同時に買い出しにいかなければならない。
買う予定の品の中にはコロッケもある・・・・・と頭のエンジンが始動してくると、ある歌の一節が反射的に浮かんでくる。
そのスーパーの総菜売り場で間断なく流れているBGMで、コロッケのCMソングの中の一節がそうなのである。
一度それが頭に浮かぶと、それこそ私の意思にかかわりなく何回も繰り返しあらわれてくるのだ。
さすがに午前中には収まってくれたものの、結構、引っ張るところがある。
この歌に限らず、ほかの楽曲でも一部だけが頭にこびりついてしまうという現象が、いままでにもあった。
ネットで調べてみると、”イヤーワーム”(earworm)というらしい。
「耳の虫」とはうまく言ったもので、そのネーミングの秀逸さは賞賛に値する。
なんでも98%の人が経験しているとの調査結果があるそうで、だとすれば、ほぼ人類すべての共通体験と言っていいだろう。
中には、イヤーワームが気になって日常生活にも支障を来す人も出てくるらしい。
あるいは心療診療内科を受診して治療を受ける例もあるとか。
ただ、大半の人は気にとめることなく、あるがままに流していっているようだ。
私自身も、これが苦痛でたまらないということはない。
毎日の生活の中で、義務としてやらなければならない事柄もあれば、楽しくて自分を忘れるぐらいに没頭してしまうひとときもある。
少なくともその間は気持ちが集中しているので、「コロッケ」のCMは忘れている。
イヤーワームのサイトを幾つか見ていると、解決法にも触れているものがあった。
書かれている内容の多くは、
「無意識の状態で発生するのだから、自分の興味のある分野のことに集中すればいい」
といったもの。
私に限って言えば、ヒマだから頭の中で「コロッケ」の演奏が続いているのだろう。
昨日から元娘婿が会社の長期研修に入り、そのおかげで、自分でもわかるぐらいに緊張感が抜けていった(汗)。
売り場では歌詞の一番だけが繰り返し流されている
焼きそばを作った。
今回は、タマネギをこんがりと炒めてみようと考えた。
複数のかたのブログで、しっかりと炒めたタマネギをカレーに入れるとひときわ味が引き立つ、と教えられたからである。
カレーライスではないが、焼きそばでも原理は同じだろうと思って、軽いノリで試してみた。
いつも野菜炒めでタマネギを使っており、要領は同じだろうとタカをくくっていたのが失敗のもとであった。
タマネギを飴色に炒めるためには、とにかく時間をかけなければならないと単純に考えたのであるが、限度を超えてしまったようである。
飴色をはるかに越えてみるも無残な黒焦げの姿に化したのだ。
タマネギだけを別個に炒めておき、最終的に焼きそばや他の野菜と合流させれば良かった、というのが反省点である。
余談ながら、焼きそばの麺は、実は中華そばなのであった。
スーパーで買うときに、「そば」の文字と麺の黄色だけを見て、てっきり「焼きそば」の麺だと信じて疑わなかったのである。
恥ずかしい話だが、単純な思い違いであった。
思いもよらぬ失敗が重なり、しかも外は雨ときているので、余計に気落ちしてしまう。
もちろん、これぐらいは人生全体で考えれば取るに足らぬアンラッキーであり、逆に、厄落としをしれくれたことに感謝しなければならないと、無理に自分を納得させた。
しkし、食べものが黒っぽいとなると、どうしても食欲は落ちてしまう。
天気の加減で薄暗い部屋であったが、あえて照明はつけないままで焼きそばを食べた。
料理の仕上がりがはっきりと見えないほうが、私の中の抵抗も少しは減るだろうと考えてのことである。
実際に食べてみると、思っていたほどの焦げ付き感はなかった。
ちゃんと焼きそばの味がしたし、まぎれもなくタマネギの食感があった。
栄養的にはどうだかわからないが(汗)。
イカ墨を使ったわけではない
11月を迎えた。
この11月というのは私の誕生月であり、ほかの人はいざ知らず、私にだけは特別な月なのである。
ちなみに、息子の子は二人とも11月生まれだ。
わずかばかりの人数の中で、たまたま3人が同じ月だといっても、そんなにも珍しくはないだろう。
宝くじをバラで10枚買ったときに300円が当たる確率よりもちょっと低い、というぐらいのもの。
ごくまれに、全員が生まれた月日が一緒という家族があるが、これは極めて希少な存在だと思う。
ここまで来たら、四つ葉のクローバーどころの騒ぎではない。
生まれ月が皆同じという家族も、探せば山のように出てくることだろう。
だから、一家の中で3人だけが一致しているといったレベルでは、おもしろくも何ともなく、飲み会の話題にもならない。
・・・・そんなことはわかってはいるものの、しかし、私自身は誕生月を二人の孫と共有できているというのは、実は大きな喜びなのである。
人間だれしも自分の意思で生まれてくるわけではないので、親を選ぶことも誕生月を選ぶこともできない。
言うならば、偶然のなせるわざなのである。
だからこそ、偶然が3人とも重なったというのが、私には神秘的に感じられてならない。
私の感性がいびつなのかもしれないが(汗)。
人が生まれてくるのは人間の都合にかかわりがないが、世の中には人間が考えたり行動したり結果として出てくるものも多い。
選挙や住民投票などが好例である。
この11月には、大阪市の廃止と特例区設置をめぐっての住民投票と、そして米国大統領選挙が行われる。
それぞれ、大阪市民と米国民が考えて票を投じることとなる。
出てきた結果は、偶然でもなんでもなく、市民や国民がみずから選んだ道にほかならない。
だから投票した人の責任は、ことのほか重いものがある。
二十歳を超えるまでは誕生日は楽しみであった